蔵書票の起源1 古代における、書物の所有者を示す方法 

Bonjour.

「蔵書票」は主にで制作され、冊子型の本の見返しに貼り付けることで、本の所有者を示す役割を果たす道具として、15世紀頃より普及が始まったと言われています。では、本が登場する以前、例えばナポレオン遠征の際に発見されたロゼッタストーンのような石板(タブレット)、あるいは、古代から中世にかけて書写の道具として重用された羊皮紙(動物の革)の時代には、そういった行為がなされなかったのでしょうか?今回は「或るモノ」を紹介し、所有者を示す行為の源流を辿ってみたいと思います。

※※必要な部分のみ切り出して紹介しておりますので、途中から動画が始まっている場合がございます。まずは動画からご覧になり、補足をお読みください。

で、こちらが件のアイテム。プラーク=釉薬をかけた石と発言してしまいましたが、よくよく考えるとおかしなこと言ってますたすみません(動画上げた後に気づきました)。組成はglazed compositionとなっており、「ガラス質の何か」らしいです。青石英も光沢があって、古代エジプトで頻繁に用いられた素材ですが、実際にはこちらとも異なるようです。プラークには、神聖文字と一般に呼ばれる「ヒエログリフ」が刻まれています。ヒエログリフは王様を称えたり、墓碑に文字を刻む際に使用されました。

作られた時期は、エジプト第18王朝時代(紀元前1570年頃 – 紀元前1293年頃)、エジプト王朝の最盛期です。世界史で必ず登場するアメンホテプ四世を始め、ハトシェプスト女王やトトメス一世など、エジプトを代表する王様が続々と名を連ねています。

古代エジプトには、私たちの生活に根付いているいわゆる冊子型の「本」は存在しておらず、その殆どは「巻物」もしくは「石」に刻んでいました。本が歴史に登場するのは、紀元後と言われています。書写の素材も紙ではなく、多年草の葦を縦横に重ね合わせて作り上げた「パピルス」が主に使用されました。そしてこのパピルスのいずれかの箇所に穴を開け、そこにこちらのプラークをくくりつけていたようです。ちなみに、プラークはパピルスのみならず、王様の履いていたサンダルなどにも汎用されました。

直訳すると言っておきながら、説明があやふやでしゅみません(m´・ω・`)m 古代エジプトの宗教は一神教ではないので、太陽神やら冥土を司る神やら様々なキャラクターに溢れています。そしてこのプラークの中では「プタフ」→「プタハ」という、神々の鍛冶屋と呼ばれる神に祈りを捧げています。パピルスのタイトルは「モリガナの木の書」で、モリガナの木って何ぞ??と思い緩く調査したのですが、何の手がかりも見つかりませんでした。。(何かご存じの方是非ご教授下さい) 一つ思うのは、このパピルスは何か職人に関することが書かれていたのではないか?例えば、ピラミッドの効率的な積み上げ方とか笑。ま、ピラミッドは初期王朝くらいしか作られていないはずなので、それは無いだろうと愚考しています。

それと、プラークのど真ん中に楕円で囲まれた文字が見えますが、これはカルトゥーシュと呼ばれるもので王様を記す際に使用された記号のようなものです。今回の場合ですと、これがアメンホテプ三世を記したカルトゥーシュとなります。左隣にもカルトゥーシュがあって気になるけど、こちらはもしかすると正妻であったティリー?かも知れませんね。

おわりに

特定のモノを所有していることを主張する行為というのは、つまるところ文明と深く結びついているように思います。原始的な社会から組織が形成され、それぞれの身分が厳密に規定されることで権威の概念が発生し、組織の上層にいる人間達は何らかの形で下々の者達に権威を提示して、社会的地位の違いを表明した訳です。その意味で、権威とはただ威張り散らすだけでなく、誰が支配者で誰が被支配者であるかを示す、すなわち、組織をまとめる役割も持っていたと言えるでしょう。

書物が権威にどれだけ作用したかは不明ですが、民衆が貴重なパピルスを使用する機会などあり得なかったはずで、それだけみてもこのプラークは十分な効果があったのではないでせうか?それでは、メルシーアビアントボンジュルネー! 

※ちなみに民衆は、石や木などに文字を書いていたようです。

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