エミール・オルリックの蔵書票 明治期の日本との深い繋がり

Bonjour.

エミール・オルリックという人物をご存じの方は、日本ではそれほど多くはないであろうと思います。昨年度ポーランド人のオルリック研究者を紹介され、オルリックに関するレクチャーを実施したのですが、参加者の中で彼についての情報をお持ちの方は殆どいらっしゃいませんでした。実はこのオルリック、明治期の日本と深い関係を持っていまして、日本滞在中に多くの風俗画を遺しています。また蔵書票とも縁の深かった人なので、ここで紹介しないわけにはいかない訳です。早速動画を見ていきましょう😊

※※必要な部分のみ切り出して紹介しておりますので、途中から動画が始まっている場合がございます。まずは動画からご覧になり、補足をお読みください。

正直私もオルリックの詳しい来歴については知りません😂 オーストリア=ハンガリー帝国で生を享け、美術学校にて版画の技術を習得し若いころから作品を発表していたことは確かです。その頃の技法は、当時のヨーロッパでは一般的なリトグラフ銅版画でした。グスタフ・クリムトが主催したウィーン分離派のメンバーでもありました。ただ、後日本格的に習得することになる木版画により、オルリックの人生は劇的に変化していきます。


ウィーン分離派。後方で特殊な構造の椅子に座っているのがクリムト、前列右から二番目の片膝に肘をついて座っているのがオルリック。

オルリックは私がこれまで狂ったように説明してきた蔵書票と深い関係があります。というより、切っても切り離せません!😂 生涯に何種類作ったかはカウントしてませんが、少なくとも二桁以上の蔵書票を遺していることは確かです。当時の蔵書票は、売れない画家の生活を支える小遣い稼ぎにもなっていたようで、半人前のオルリックも若い頃から依頼を受けて制作していたと見えます。で、今回紹介する蔵書票ですが、何と本に版画の現物が貼り付けられています!!!って、そこまで驚くべきことでは無いんですよね笑 当時はカラー印刷技術が今ほど洗練されていなかったり、版画の挿絵の入った本などもざらに出版されていたので、現物の貼り込みなどはそれほど珍しくありませんでした◎

で、こちらの蔵書票を木版画とか(偉そうに)紹介してしまいましたが、正しくはリトグラフでした!!😂調子こいてごめんなさい😂 でも木版画とオルリックの関係が深いこともあって、敢えて動画を撮りなおしませんでした。詳細は次をご覧ください。

オルリックは、明治時代の日本との関係が非常に深く、後々彼の代表的な技法となる木版画は日本にて習得されました。西洋の木版画は14世紀末頃に始まったとされているのですが、その後産まれた銅版画に取って代わってから、18世紀末頃まで忘れ去られていました。さらに日本では一般的だった多色刷り木版画の技術は当時の西洋には存在しなかったので、学ぶには必然的に来日しなければならなかったのです。そして現在オルリックの代表作の殆どは、木版画によるものです◎私が木版画と早合点してしまったわけがお判りになったでしょうか?笑←責任逃れ😂

で改めて蔵書票の観点からすると、オルリックなくして日本の蔵書票の歴史は始まらなかった?のかも知れないという資料がこちらの明星です。明星を主宰していたのは詩人の与謝野鉄幹で、みなさんご存じ与謝野晶子の旦那です。与謝野晶子の代表作「君死にたまふことなかれ」もこちらの雑誌で初出しました◎ 明星にオルリックと彼の蔵書票が紹介された所以は、恐らく当時の明星の関係者が西洋文化に明るい人たちばかりだったという点が、大いに影響しているのではないかと個人的に分析しています😊 エッキス・リブリスという文言が、いかにも古めかしい表現で逆に新鮮じゃないでしょうか??笑😁

おわりに

恐らくオルリックは、蔵書票を本に貼り付けて使用するものというより、現在同様一つの芸術作品として紹介したのではないかと推測しています。日本で出版されたあらゆる本の中で、実際に蔵書票が貼り付けられたものを、私でさえ過去にたった数冊しか見たことないというのが一つの理由。また大正期から蔵書票が交換、要はトレーディングカードのような形で供されていた事実もありますので、蔵書票は当初より本来の役割があまり重要視されていなかったと現状は結論しています。ちなみに過去のトピックでその辺に言及しているものがありますのでご参考まで→こちら

それとオルリックの木版画蔵書票と作品を一部を載せておきます😃

動画の全編は下記となります。ついでにチャンネル登録もらえたら嬉ちーなと思うこの頃です。

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